平戸・伊万里・唐津の旅


佐世保駅


西海国立公園、弓張岳展望台(ゆみはりだけ、標高364m)

佐世保軍港は見下ろせないため、昔からの観光地。戦時中には砲台も設置された。

平生の行いのせいか、小雨交じりの曇り。

佐世保港

九十九島(くじゅうくしま)方面、下に見えるのは 弓張の丘ホテル

佐世保駅からバスで来ることもできるが、この本数

道の駅昆虫の里たびら、暖かい季節は昆虫(カブトムシやクワガタ)を売っているらしい



平戸といえば、男はつらいよ1977年第20作「寅次郎頑張れ」マドンナは藤村志保、中村雅俊、大竹しのぶ出演。

この作品と同じ1977年に平戸大橋は開通していたが、渡船が登場。平戸城は同じ。

左に見えるのが平戸大橋。フェリーは的山(大島)行き。

平戸幸橋(眼鏡橋)の前を走る寅さん。

港から見た、みやげ物屋「おたち」

道幅が大きく拡がっていた。

建て替えられていた。

ザビエル記念教会、塗り替えられて少し違う色に。

「寺院と教会の見える風景」を歩く、マドンナと寅さん。

ザビエル記念教会は中も見せていただける。

再び港へ。

じゃがたらお春

江戸時代初期に長崎に在住し、バタヴィア(ジャカルタ)へ14歳で追放されたイタリア人と日本人のハーフの女性で、ジャカルタから日本へ宛てた手紙がじゃがたら文として知られる。その文章が秀逸だったことで人々の感銘を受けた。21歳のときに同じ平戸を追放されたオランダ人の血が入る女性と結婚した。三男四女を産み育て、1697年4月に72歳で亡くなったと記録が残っている。 じゃがたら文も晩年のお春の手紙との差異が著しいことから、近年ではほぼ偽作と結論されている。ジャカルタ古文書館にはお春の遺言書が保存されており、遺産の分配や奴隷もいたくらい富裕層であったことがわかっている。

生月島(いきつきじま)へ

生月大橋は平成3年に有料道路として開通し、平成22年から無料化された。

三径間連続トラス橋としては世界最大規模で、橋長960m(高架の前後を含めると1332m)桁下31m、総工費45億円。

平戸大橋から20kmあって少し山道なのだが、行く価値はある。

向こうが平戸側

橋の下に行くと、漁港の岸壁で釣りをしている人がたくさん

道の駅生月があったが、インパクトがなかったのか、撮影を忘れて写真がない。

鄭成功 Zheng Cheng-gong

1624年生まれ、父は6カ国語に堪能、経済も勉強していたような海賊商で当時の藩主に気に入られ、平戸に住んでいた。母は日本人で、この海岸に貝拾いに来ていたときに産気づき、岩で出産したらしい。父のボスが死んで父がボスになることになり、成功も7歳の時に復権に渡る。その後明を立て直し、オランダ領だった台湾を取り戻した。蒋介石、孫文と共に銅像が残るくらいの大英雄。

美しい海岸


後ろにそびえる、平戸千里ヶ浜温泉ホテル欄風に尾野真千子さんが来たようだ。
旅色2015年2月号


道の駅松浦海のふるさと館

1281年に弘安の役で総勢4400隻14万人の元軍の大半が松浦市に沈んだといわれている。最近の調査で、20メートル級の船も沈んでおり、この船はそのときの上陸艇で、NHK大河ドラマ北条時宗に使用されたとある。日本一、というのはこのゆるキャラが持っているだけで、アジサバ水揚げ日本一(近く)ということらしい。

ホテルからの伊万里の町

道の駅伊万里

この時期(2月)に梨を売っていて驚く

続いて道の駅桃山天下市

呼子へ

加部島にある「風の見える公園」から見る呼子大橋

呼子港



長さ5キロに渡って100万本の黒松林が続く。

17世紀のはじめに、唐津藩の藩主寺沢広高が防風林・防砂林として植樹を行った。伐採は死罪、落ち葉を燃料にするのも禁止にするほど保護された。広高はこの中の松に私が愛してやまない松が7本あるといわれたが、どれがその7本か教えらえることはなく、農民が粗末にした松がその中の7本にならないように心理的圧力で全ての松を大切にさせた。

松原の長さから、二里松原と呼ばれていたが、明治時代になると虹ノ松原と呼ばれるようになった。現在でも保安林にされ、伐採はもちろん禁止され、費用と労力をかけて維持されている。

最後の道の駅、道の駅厳木(きゅうらぎ)

白い像は高さ12mの佐用姫の像で、ゆっくり回っている。

佐用姫についてくわしくはこちら。

道の駅と橋をたくさん渡った、平戸・伊万里・唐津の旅。焼き物には全く触れることなく終わる。

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